20240624更新済み。
私達夫婦は、札所巡りはしていません。
本記事は亡き義父の想い出をたぐったブログに過ぎません。
[分かれめを思い出す]
日常の生活に追われていると、「別れめ」を見極める目、経験の大切さに気付きません。
かなり思い切って、日常とは真逆の空間に浸ってみる必要があります。
何故なら、私は70歳です。車での霧深く険しいお寺への遠出は難しくなってきているからです。
しかし多少無理でも忘れていた原点(何が一番大切か)を、思い出すことができた場所でもありました。
[訪れた場所]
50年間の運転経験で、初めて濃霧で立ち往生しました。
10m先も見わけづらい深い霧を突き抜けたところに、その岩寺はありました。
[御縁を求めて]
このお寺では亡き義父が納めた手彫りの「不動明王」様を大切に御守りしてくれています。
この岩寺へのお参りは初めてで、体力的には最後になるような気がします。
[何故来たのか]
義父が亡くなった後で知ったのですが、厳しい管理職の立場にたたされていたようでした。
不景気な時に工場長の頃、仲人(なこうど)をした部下の首までも切らざるをえなかったら
しいです。
そういえば、生前の義父に久しぶりに会うたびに「お前の会社は大丈夫か」が口癖でした。
仕事が面白くて仕方がなかった私には、その時は「わかれめ」には全く気付ずかず、サラリーマン生活を謳歌していました。
やがてほとんどの人が持つであろう疑問や迷いには気づきませんでした。
義父の心の奥の苦しみに寄り添うことができなかったわけです。
義父同様、老後を迎え、当時の義父の想いをわずかでもすくい取れればというのが行くはずもなかった岩寺へお参りする動機でになりました。
[心の救いは仏様を刻むこと?]
家では見たことはなかったのですが、義父の心の拠り所は、自分が見極めた良木に向かって一心不乱に仏様を刻むことだったのかもしれません。
まるで仏師が刻んだかのような精巧で精緻なご不動様でした。
本当にあの義父が彫ったのかというぐらい穏やかな精緻なお顔でした。
[仏様の表情が実に穏やかだった]
偶然、代替わりのご住職に出会え、快くお堂に安置されている父が刻んだ不動明王様までご案内いただきました。
意外にも不動明王様は「穏やかなお顔」をされていました。
ひょっとして仏様に義父の願いを込めていたのではないのでしようか。
敢えて微笑を刻んだのかもしれません。
生前の義父からは見られなかった微笑でありました。
「微笑みの絶えない心穏やかな本物の生活を送りたい」と...。
家族も会社も何もかも捨てこの霧深い寺に逃げ込みかったのかもしれません。
義父は現実を選びました。
家族への責任感からほとんどの人は、現実を選ぶでことでしょう。
現実に流されていくといったほうが正確かもしれません。
それでも幸せな人生と言えるでしょう。
義父は心が振れたとき仏様に微笑を託したのかもしれません。
[真逆]
長く働いていると色々なハンディを背負っている人とご一緒します。
生死を分けた経験からか、人情の有難みが身に染みるのかもしれません。
残された人生の大切さが愛おしいのかもしれません。
失ったものが多いにもかかわらず、総じて微笑みの絶えない明るく穏やかな人が多いような気がします。
言葉の端々に気遣いが感じられます。
いわゆる仏様のような気がします。
そういう人を深く知ると、実は...と、「生死を分けた苦難をかいくぐってきた」微笑みとは真逆の苦渋の人生経験を淡々と語ってくれるこ事が多いです。
[微笑み]
苦しい時ほど「微笑み」をうかべている。日々の生活の周りに、仏様のような人々は数多くおられます。
このことに気づかされます。
また気づきます。
結局、義父は現実を受け入れ義母が死ぬまで豊かに暮らせる程度のささやかな財を残しました。
反面、心の奥底からの微笑みを浮かべることができたのでしょうか。
「微笑みを浮かべられる本物の生活」に気がついている人はいくらでも周りはおられます。
「ゼロか100か」この選択で私も振り回されてきました。
しかし現実という苦い水を飲み込んだ。
というよりも捨てる勇気がなかった。というのが本音であります。
1mm程度のほんのわずかな「財」はたまたま残った結果でしかありません。
結局、義父と同じ道を歩みました。
「微笑を浮かべながら、ほどほどの適当で豊かな人生」を選択できるほど日本の世の中は甘くはありませんでした。
「どの時点で 心からの本物の生活に気がつくか気が付かないか」これは大切な分かれめ(原点)かもしれません。
しかし、ゆっくり立ち止まって原点に戻って考えられる程日本の世の中は甘くはありません。
なしくずしに現実を選び、私のように気がつけば70歳に到達するのかもしれません。
しかし、日本の何処かに岩寺のような有り難い空間がある以上、たまには、多少無理をしてでも真逆の空間に浸ってるのも無駄なことではなさそうです。
僅かなひとときでも、お遍路の祈りの絶えない霧深い寺で「穏やかなお顔のご不動様」と「ご住職の微笑」に接する事で180度違った自分に出会えるかもしれません。
私の希求する「感謝に気づき微笑みを浮かべた本物の生活」への「分かれめ」(原点)を思い出すのも無駄ではなかったとおもいます。
365日、微笑どころではない厳しい現実があるかもしれません。
然し、ふと心が振れ、迷ったとき
観光とは真逆の霧深い険しい岩寺に、たまには立ちより、忘れていた原点を思い出すきっかけを掴むのもわるくはないかもしれません。
失礼ですが、浮かれた観光ではなく、「分かれめ」を想出させてくれる有り難い霧深い岩寺が日本にはあるのも事実であります。
以上有り難うございました。