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京の想いで ~鯖寿司ときつねうどん~ 少し、酔いました 京の感性に


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エモーショナルライティング ストーリーテリング

 [京の感性]

20231210更新済

鯖街道



「うどんに 鯖寿司」 この組み合わせを思いつきます?
実はバッチリです 理屈は分かりません とにかく合います
大原から福井の若狭までサバ街道 があります これも知らなかったのですが、 若狭の海は朝廷に献上できる海の幸が豊富な国の一つだったらしいです
それ以外に大原からノーストレスでドライブできます。 東は琵琶湖です。 鯖が豊富に取れ 冷蔵 技術がない時代には塩で保存し70〜80キロの距離を 人力 や 牛や馬で運んだらしいです。 昔の人はこれぐらいの歩きはたいしたことはなかったらしいです。
余談ですが供物のため、上賀茂神社では、保冷用の倉があります。暑い京都では食物には気を使ったんでしょうね
話を戻します。街道をドライブすると、山道特有のグネグネ道や急坂は少なくトンネルにも気がつかないくらいです。 終点は京都の市場の錦市場まで運ばれたようです。 京都の郷土料理の一つに 鯖寿司がある所以らしいです
鯖寿司が本当に美味しい
銀閣寺の近所にポツンとうどん屋さんがあります
カウントに座るとうどんと 鯖寿司がセットで出てきます
何でサバ やねん?
うどんにはキツネで十分やろと思いながら食べてみると 、これが実にうまいんです。
うどん屋さんには大変申し訳ないんですがうどんの味は忘れました。
サバの切り身の分厚さと、お米のこなれさにびっくりしました。
鯖寿司ってこんなに、美味しかった?
うどん屋さんで、すっかり鯖寿司を見直しました。
コレも余談ですが、本物の鮒(ふな)ずしも美味しいんですよ。
美味しい感覚より、酒に合うと申し上げたほうがシックリ来るかもしれません。 もう出会えないかもしれませんね、あの味には
舌にとろけるチーズのようで、発酵を楽しむような。 御酒の飲めない先輩から、京都の小料理屋さんで、本物の味を教えていただきました。
話を戻します。 サバの薄切りのバッテリーは もともと好きだったんですが分厚い切り身の鯖寿司はこれはこれで とても ゴージャスです。
わざわざ、そこまで行かなくてもいいのですがサバ街道に「熊川宿」 という 宿場町があり 随分サバの物流で潤ったみたいです。 浅野長政 の 庇護のもと 軍事拠点として 免税されていたのも 発展の要因です。
浅田長政ってこんなとこまで抑えてたんか? 織田信長お市の方を嫁がせるはずやな? むしろ、浅野のほうが格上で優勢だったのでは?
話しをもとに戻します。 当時は 「縄 1本あれば生きていける」というほどの物流拠点だったようです。 両側には水量豊富な水路が流れ おばちゃんが洗い物をしていました。水路の石組みもシッカリしていました。
サバが無ければ、小浜で気温10度でも、ここでは2〜3度ぐらいの寒村です。 道の駅で鯖寿司が手に入り ましたので、大原まで 足を伸ばし 出町の商店街でお弁当のおかずだけを買いました。目はり寿司の大きさ。 残念ながら、鯖寿司を2つもつまむと、おなかがいっぱいになりました。 悔しい!食べきれません。 鯖寿司は福井のメーカーさんでした 。
久しぶりに、銀閣寺のうどん屋さんで食べた思い出の鯖寿司に出会うことができました。
道の駅で、3回目の訪問の開店ダッシュで鯖寿司をやっとゲット。 皆さんよくご存知のようです。 冬に鯖寿司は納得。 でも、うどんはキツネにこだわるのはわたしだけでしようか 。最後まで、古典落語のようにうどんの汁を最後まですするのがうどん屋さんに対する礼儀ではないでしようか?(私だけかもと家内にはいわれます。知らんけど) 鯖寿司までたべれへんで! せっかくの汁を残すと、もったいないやろ うどんはキツネやろ
鯖まで食べきれないすぎやろ 無限ループのように疑問は続きます。
皆様はこの取り合わせはいかが?

 

最後までお付き合いいただきありがとうございました。コメントをよろしくお願いいたします

 

 

20231115更新済

 京都嵯峨野の奥まで行きました。

 

[行ってよかったこと]

 

  

  竹林

秋の風の音

小鳥の囀り

金木犀の香り

 

[反省]

 嵯峨野もここまで来れば、思索と祈りの場

 

 お静かに、穏やかに

 

[行ったところ]

化野念仏寺

 

[静かに暮らし]ておられる、お住い

 もはや、思索と創作の場

 

 小倉山と

 桂川。 

 

 嵯峨野には、自然にとけ込んだ京の文化と静かな暮しが

ありました。

 

[できれば、お静かに、お静かに。]

 

 ここから先はは私の思考回路です。

 

 「ナンノコッチャ」です。

 「つれづれなるままに」、ですので、読み飛ばしてください。

 

 何故なら、纏める力にハナハダ欠けているからです。

 

[月明かりの下での思索]

 

【深夜の嵯峨野のイメージ】

**蒼白き月明り**

蒼白き新月が夜空に浮かぶ

その光は静寂に包まれながら

暗闇のなかで千年の物語をひっそりと今夜も語りたがりそう

星々は瞬く

遠くの風がささやく

夜の暗闇が私たちを包む

 

月の光は冷たいしずくのよう

地上に降り注ぐ

木々の葉に触れて

 

夜の風が竹林を揺らす

悠久の世界へといざなう

蒼白い月明かりの下で

時が語り合う

 

 祇王寺は隠棲の場?

 落柿舎は感性を研ぎ澄ます場?

 [去来は?]

    [芭蕉?] 

嵐山光三郎 著

芭蕉の誘惑」

<全紀行を追いかける>

より抜粋

2000/4/1初版

「落柿舎は常寂光寺がある 小倉 山の麓にある。

 落柿舎の前は一面の畑で、 1袋 200円の白葉、葱、 小松葉が無人売りされていた 。

 落柿舎の左手は嵯峨天皇 皇女 有智子内親王墓所である。

 鳥が落柿舎の柿の実を食べていた。

 風が吹いて 紅葉した柿の葉と鳥の葉が舞い落ちてくる。

 入園料を 払って庭に入ると柿の古木が十数 本 あった。

 ひょろりと 痩せた 仙人のような 古木で、枯枝の先に 小粒でまん丸の山 柿が実っている。

 原種の柿である。

 庭の中に2つの庵がある。庵の障子に12月の 薄い 光が当たって、わずかに柿色に滲んでいる 。

 落柿舎は芭蕉の弟子、 去来の別邸であった。

 去来は家にいる時は、土壁に笠と蓑を懸けて在宅を知らせた。 今もその笠と蓑がかけられている。

 庭の柿があまりに 旨そうなので、通りがかった商人が買い入れたいと申し入れ、代金を置いていった。ところが 、その夜 嵐となって 、柿の実が全て落ちてしまったという 。そこから落柿舎の名がついた。そのことを詠んだ去来の「柿主やこずえはちかき あらし山」の句碑が庭の奥にあった。

 芭蕉が最初に落柿舎を訪れたのは 「細道」の旅を終えた元禄 2年の暮れ であった。その時は 老僧がしょうを叩きながら 唱声をあげて歩く 鉢たたきの音を聞いた。 元禄4年には4月18日から5月4日まで滞在し 、没する元禄7年5月にも滞在した。落柿舎は芭蕉の京都宅のようなものであった。  落柿舎主人 去来は芭蕉が 43歳 の時の弟子で7歳下であった。長崎の儒医の息子として生まれ 、父に連れられて京都に移住し 、武芸百般の達人となった 。まずは其角に親しみ、その縁で蕉門に入った

 京都の去来も 彦根の許六も屈強の武士である」

 

私見】 

  

 350年前の

嵯峨野。

 

 聞こえるのは風の音のみ。 

鼻をつままれてれも分らない暗闇の中で、

唯一の友は、夜空に瞬く星座のみ。

 青白い光を押しのけながら西に帰る新月が、まるで彫刻刀のように俳人の思索を削ぎ落としていく。

 

 何故、文化人と交わるチャンスの多い東山ではなく、わざわざ小倉山を好んたのか? 

 

 暗闇と風の音が芭蕉の感性に問いかけやすかつたから?

 

 人との交わりのなかで思索を深める。  

 既に弟子も増え、熱烈な支持者も獲得している俳諧の重鎮なら、普通は東を好むのでは?

 京大も同志社も東にありまっせ!

 東で十分チヤホヤされるのに

 何故こんな辺鄙な西へ?

 ワザワザ?

 旅が栖(すみか)だから?

 瞑想、黙想、思索

 或いは脳のOFFが必要だから?

 

 良い意味で目立つのは大変な事で、まずはできません。

「何も無い底辺から俳諧の重鎮へ」 

 折角掴んだ成功を貪(むさぼ)らず、嵐山のような西のはてへ?

 100人中100人できまへん。

 

 芭蕉も変わってれば去来も変わってまっせ!

 

【再度嵐山光三郎氏に登場して頂く】

「落柿舎を出て 裏の竹林を回ると、 弘源寺に去来の墓があった 。

 手のひらに乗るほどの高さ30cm の小さな墓石 であった。

 馬術に優れ、剣を極め 、戦法の奥義を学び 、西の俳諧 奉行と言われた 去来の墓は、武道 諸伝を捨て去るかのように小さい。

 筑前黒田候が 学識を愛でて 招いたのを固辞し、 「鴨啼くや 弓矢を捨て十余年」と 詠んだ」

 

 【私のため息】

 勿体ない。

信じれられます⁉

 やっぱり変わり者だったんでしょうかね。

 

 100人中100人できまへん。

 

 100人中100人できない人が嵯峨野の奥にいました。

 

 俳句とは無縁の私には、答えは当然、でませんした。

 

 嵯峨野はボート遊びも出来る渡月橋から、化野念仏寺まで多面性があります。

 

 両者を1度で楽しむのは難しいかもしれません。

 

 何十年もの時の力のおかげて、祈りと思索の場と受け入れる頭の切り替えができる器用さが必要かもしれません。

 

 以上です。

 

 

 

 

20231007更新済

 

 上賀茂神社

 

 やっと彼岸花が咲ききって、涼しくなってきました。

 京都の上賀茂神社に散策目的で行ってきました。

 

 少し肌寒かつたくらいです。

外気温24度。

午前10時半着

せり出した大木を避けて車を止めます

大型観光バスはゼロ

 

 目的は近くのレストランで美味しいランチとウオーキングです。

 

 [良かったこと]

 

神主様から直々にお祓いをしていただき、神様の間近で拝殿できました。

 

 「雷」の読み方が分かったこと

「カミナリ」を「いかずち」とよみます

 

 かもわけいかずちのおおかみ

[賀茂別雷大神

が正式名称

 

 雷(いかずち)をも割いてしまうほどのパワーで、京都御所の鬼門の方角を御守りしてこられたというのがいわれらしいです。

 

[残念だつたこと]

 

 ミッチリご案内いただいたので

 マインドが神様詣でになつてしまいました。

 ウオーキング気分は吹っ飛びました。

 せせらぎにそいながら、緑のなかを、周辺のお社をできるだけ、くまなくご参拝させていただく。

[知らなかったこと]

 紫式部さんも来はったみたい。

 立派な歌を詠まれて帰られたみたい

 

 歌碑が残ってました。

 

 詠めんしわからんけど。

 

 立派な歌らしい。

 

 織田信長さんも2回も加茂の競馬を見にきはったらしい。

 そういえば芝の広い馬場らしき広場がありました。

 献立表では、ご接待は大変だったみたい。

 こんなに食べれたのかな?

 その時の馳走のメニューが右から左にズラ〜と書かれた会計記録が達筆。

 えらい気の使い用みたいでした。

 

 [感想]

 減量中も思い出し、折角のご馳走も腹八分目

 

 京都まで来て、こんなマジメな1日もたまにはありかも

 

 兎に角、神主様の

「加茂別雷大神」愛が凄かった!

[失敗]

神主様の説明では、下賀茂神社御神体上賀茂神社のお母様。のよう?

 

 以前、下賀茂神社の特別展の時に説明していただいたことを100%忘れていました。

 

 以上でした。

 

 

20230915更新

 全く言葉だけで知らなかったのですが。

鯖街道」と言うのがあって、

 福井と京都を結んでいた。

 道を偶然知って辿ることにしました。

 京都の大原あたりから福井の小浜の三方五湖あたりに繋がっていました。

 ドライブ目的でした。

 20230914で京都は31度 

 入道雲がでてました。

 エリアによっては稲刈りがすんでいました。

[良かったこと]

 国道でしたので、道の駅もあり快適でした。

 綺麗な川にはキャンプや魚釣り客が結構いてはりました。

 3割上りであとは小浜まで下りで快適。

 宿場街の道の駅の、羽二重餅がトロケルような食感で大当たり

 小浜に名泉100選有り。

岩に苔生す厳粛な雰囲気の滝からの清流。

 チョッピリいただきましたが、本当にクセがなかった。

 水は神様と同じと教えられてきたとうりの雰囲気。

 

[ 残念だったこと、]

 土産は焼鯖のよう。

 京都の銀閣寺のうどん屋さんで食べた鯖寿司とは違うよう。

 探せばあるのでしようけど

[感心し驚いたこと]

 「縄一本で生活できる」という心意気があったらしいです。

 小浜の海産品を、担いで、出町栁まで。

 錦市場の店頭を賑わしたらしいです。行動

 馬の力を借りたり、分業で運んだのでしようが、ほぼ登りのこの道を、春夏秋冬、運んできたものだなと、「縄一本」で生きぬく智慧と根性と粘りに感心しました。

以上です

 

20230909更新

比叡山延暦寺にお邪魔してきました。

朝1番。

9時着。

静寂。

皆さん穏やか。

 

 

 

20230722更新しました。

7/21祇園祭りが今年は最後。

宵々宵山に室町筋へ

<良かったこと>

小さい女の子たちは浴衣すがたで童(わらべ)

うた。男の達は鉾の上で祇園はやし。

街全体が誇らしげ。

ゴブランや綴(つずれ)織、屏風などを身近に拝見。町家を開放して中まで入らせていただきました。

奥は結構広かったです。

夕暮れは提灯で鉾を中心に町全体がうきあがつてみえました。

NHKも取材にきてました。

名残り惜しいが私達の祇園祭りはこれで終わりです。

20230713更新しました。

2023 7/12

祇園祭りの試し曳(び)き

を見物にいつてきました。

  

良かったこと

本物の神様への捧げものですね

作法が優雅で上品。

はしゃぐのも結構ですが、たまにはこうゆう作法が綺麗で優雅なお祭りもええもんです。

ここ、京都では時の刻みが止まっています。

残念だったこと

途中で雷雨到来

皆さんびしょぬれ!

中には、ひときわ目立つ、ブライベート参加の芸姑さん?らしき方も大綱を曳(ひ)いてはりましたわ。

綺麗な和服が台無し。

以上でした。

 

すいません。 

少し酔いました。

弥生(やよい)月も末近く。

快晴。

暖かい春。

花に酔い、京に酔い、ワインに酔ったからです。

私は花音痴です。

しかし、各地の花便りにフライング。

つい京都へ。

このベストシーズンに車は無謀です。

車なら西大路からせめるで、東大路は車ではマズ出遅れ確実。

西大路五条から一条へ北上。 

意外に車が動く。 

読みがピッタリ。

お目当ては、平野神社の桜。

桜どころか椿や菜の花まで、花の競演に酔いしれました。

北野天満宮にもどり、このまま帰るのはもったいないねということになりました。

花街、上七軒の風情をあじわいながら、石畳を歩きます。

ちょっと遠回り。

はずれからはトントンと機織(はたおり)らしい音が聞こえてきたような気もします。

しみ抜き屋さんもご健在。

屋号と提灯がなければ、まるで地味な普通の町家。

花街をそぞろ歩きしているようにはおもえません。

タイムスリップした先は800年前の鎌倉時代の大本堂。

千本釈迦堂、がお出迎え。

都を焼き尽くした、1467年の応仁の乱

京都市街は無秩序。

ひとのよが

むなしく

なる

この時代

不思議と本堂だけは戦禍を免れ無傷。

奇跡か智慧

私は智慧と信じたい。

でも、祈りの場の柱には刀傷が残っていたりします。

お堂に入ると、あれ、これ、どこかで見た造りやな一緒とちゃうん。

といった建築様式が随所にみられます。

本堂造営は「おかめ」の旦那さんの一世一代の大仕事。

そんじょそこらの棟梁にはまかされまへん

ライバルの棟梁仲間からは注目の的、羨望の的。

しかし、なぜか大チョンボ

ホンマかいな。ありえん話しやで〜

あの名匠が、かけがえのない柱を短くきってしまった。

信じられない。ウッソ〜。まさか〜

死人に口無し。本人の弁明も聞くべきだが

なんせ800年も経過。

お寺のいわれに書いてありますのでそのまま話しをすすめます。

「桝組(ますぐみ)を施せば」と妻「おかめ」の機転で、無事上棟式

800年の後、お堂は国の宝となりました。

しかし、めでたいはずが「おかめ」は自害。

私が生きながらえれば、いつか私のデシャバリが世に知れる。との理由。

棟梁とはいえ飛騨守の妻。

「おかめ」は我が命より旦那の名を惜しみました。

ここから「おかめ」の徳を偲ぶ信仰がはじまりました。

話しは、変わります。

隣のお堂には、国宝、重文クラスの仏さまがズラリ安置され、ガラスの仕切もなく

間近に優しいお姿に対面できます。

お姿の羅列は控えます。

快慶・定慶の名作が埋もれるほどの圧倒的存在感。

国宝に真正面に向き合うことができます。

貴族でしか許されなかったであろう、間近な拝顔の栄誉。

800年前の仏様と同じ空気をすっている。

見るべき場所ではなく、拝む場所ですとのお堂の注意書きにも納得。

足利義満の牛車の大車輪。

その木製の2m程の真円は、邪魔げにお堂の片隅に無造作に置かれていました。

義満といえども、仏から見れば皆同じ。

 現世のご利益には、あまり力を入れてはいないようです。

誇り。

 良い意味でも悪い意味でも京の人には見栄が大事。

 そこの偉いお人もうちょっとかわしてもらえまへん、ここは京でっせ。

 千年もの間栄枯盛衰を見てきた京都人。

人を見る尺度が違うのかもわかりません。

 私達は、さりげない京の奥深さに酔いしれるのでした。

 なぜ、ワイン。

私は機嫌のいいときにしかお酒はのまないからです。

 花に酔い。京の奥深さに酔ったからです。

 嘘で〜す。

とにかく、お酒がのみたかったからで〜す。

 今回の花の香りと京の奥深さに免じ、罪深き私をお許しください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[自己紹介]

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 最後まで、お読みいただきありがとうございました。