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AIや電気やガスがなくてもおいしいお餅を食べさせてくれた昭和の思い出

                 

お餅。image creatorより画像は抽出。

私は、サンタさんは本当にいると信じていた子どもでした。クリスマスイブの夜、眠りにつく前に、サンタさんの足音やトナカイの声を聞こうと耳を澄ませていました。でも、どうしても眠気に負けてしまいました。朝になって、枕もとには、大きな箱が置かれていました。中には、私がずっと欲しかった「おもちゃ」が入っていました。サンタさんが来てくれたんだと思って、嬉しくて飛び上がりました。

 

昭和の夜、5人家族でケーキを食べました。ろうそく消しのセレモニーも終わり、まん丸いケーキをショートケーキに切り分けました。でも、切り分け用のナイフは何時もの菜っ葉を刻んでいた包丁でした。でも、白いクリームがのったケーキは外国人になったような気分でした。ケーキはふわふわしていて、フォークから落ちてしまいました。兄妹は外国人を諦め、手でつかんで食べました。妹の鼻はクリームまみれでした。

 

私の家の小さな庭に、ポチという犬が住んでいました。ポチは、いつも庭を駆け回っていました。庭には、半球の石が裏返しに置かれていました。石は、お墓の石を半球にしたようなもので、とても重くて動かせませんでした。私は、石の中に何が入っているのか、ずっと不思議に思っていました。

 

石は、1年間で1日だけ使われるものでした。それは、お餅をつく臼でした。 お餅をつく日は、父と母が一生懸命に働きました。

父は、小太りで背丈160cmの男でしたが、杵を持って米粒を潰しながら石臼の周りを一回りしました。やがて白い息を吐きながら、威勢よく杵を石臼に振り下ろしました。

母は、小柄で華奢な女性でしたが、木のシャモジでお餅を返しました。母は、農家の嫁には向かないと言われて、大阪に嫁に出されたそうです。でも、お餅をつくときは、要領よく手際よく動きました。

 

お餅は、臼の近くで木を燃やして蒸した餅米で作りました。ご飯を炊く釜の上に蒸籠が2層ぐらい乗っていました。火は強く燃えて、煙はあたりに広がりました。 母は、着物に白い割ぽう着姿でした。髪は、手ぬぐいで覆っていました。昭和の主婦業は大変でした。お餅をつくときも、火傷や煙に気をつけなければなりませんでした。「うん」と母が言いました。それは、蒸籠の蒸し加減がちょうどいいという合図でした。母は、蒸籠を持ち上げて、石臼の中に入れました。スダレが取れると、真っ白な米が蒸気とともに現れました。農家育ちの母は、お米の扱いが得意でした。 私は、母の動きに見とれていました。まるで手品を見ているようでした。なぜなら、私には、木を燃やして真っ白いコメがたけたのが不思議だったからです。

昭和の頃は、消防署もご近所も両親も火や煙には寛大でした。両親から危ないと叱られることもなかったです。

私にとってつきたてのお餅の白さと香りと湯気は魔法のようでした。 お餅には、色々な種類があります。白いお餅は、鏡餅にするためのものでした。硬くなったら、細かく割って火鉢であられにしてくれました。それが、兄妹のおやつでした。赤いお餅には、エビが入っていました。エビの色は無彩色の冬に彩を添えてくれます。緑のお餅には、ノリが入っていました。ノリは、健康にいいと言われています。豆の入ったお餅は、鬼は外福は内の豆です。縁起ものなのでしょう。

 

お餅は、そのまま保存しました。かまぼこのような形で、常温です。後日、コレもいつも葉っぱを刻んでいる包丁でスライスしました。練炭火鉢の網の上で「ぷ〜と」膨れたら醤油に付け、ふたたび火になじませて海苔を巻いて食べさせてくれました。この食べ方がいまでもベストだと思っています。

 

私は、両親の背中を不思議とよく覚えています。父も母も、電気やガスやAIがなくても、お餅をつくことができました。二人は、自分の力と知恵と愛情で、私達においしいお餅を食べさせてくれました。

 

炎と湯気とお米の香りと白いお餅。二人は私たちに最高のプレゼントをのこしてくれました。